大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和29年(あ)1724号 判決

上告人 被告人

盛次幸一

弁護人

諫山博

主文

本件上告を棄却する。

理由

被告人の上告趣意第一点について。

所論は、原判決は憲法二八条に違反すると主張する。しかし所論の前提とする、新田巡査部長が所論集合に干渉する意思であつたとか、勤労者の団結権または団体行動権に干渉しようとしたという事実は、原審の認定しないところであり、また集合に臨んだことが直ちに団結権や団体行動権に干渉することになるという主張は、独自の見解に過ぎず採用のかぎりでない。されば所論違憲の主張は前提においてすでに成り立たない。

同第二点について。

所論は、原判決が所論の警察官の活動を容認したことは、憲法の保障する思想、信条の自由を侵害すると主張する。しかし第一審判決及びこれを支持する原判決もともに、警察官の行為について所論のような事実を認定していない。所論は、原審の認定と異なる事実に立脚し違憲を主張するのであつて前提を欠き採用できない。

同第三について。

所論のしきりに強調するところは、独自の見解に基き本件を政治的陰謀によるデツチ上げでありとする事実誤認の主張たるに帰し、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。

弁護人諫山博の上告趣意第一点について。

所論は、原判決の法令違反を主張し、その前提に立つて憲法二八条違反及び判例違反を主張する。しかし労働組合法一条二項の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて、同条一項にかかげる目的を達成するためにした正当なものについて刑法三五条の適用を認めるとともに、その但書において、いかなる場合においても、暴力の行使は、労働組合の正当な行為と解釈されてはならないとし、刑法三五条の定める行為に当らないことを明らかにしたものと解すべく、原判決の同趣旨に帰する判断は正当である。そして原判決は、第一審判決の確定した事実によつて、被告人の本件強要、不法監禁の所為を、労働争議において社会通念上許容される限度を越えた暴力の行使であることを確認し、この理由によつて第一審判決が刑法三五条を適用しなかつたことを正当であるとしこれを支持したのであるから、原判決になんら法律の解釈を誤つた違法はない。そしてまた所論は、法律解釈について独自の見解に立ち判例違反を主張し大法廷判例を引用するけれども、原判決はなんら右判例の趣旨に反する判断をしたものではない。従つて原判決に法律解釈の誤のあることを前提とする違憲の主張はその前提を欠き採用のかぎりでない。

同第二点について。

所論は、原判決は大審院判例に違反すると主張する。しかし所論の前提とする新田巡査部長の本件行動が職権濫用罪であるという事実は、原判決が強く否定するところであつて、この点に関する原判決の説明は相当である。所論は、独自の事実認定に立つて理論を展開するのであり採用のかぎりでない。従つて判例違反の主張の成り立たないことも自ら明らかである。

同第三点について。

所論は、要するに事実誤認の主張であつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。そして所論の内容についても、理由のないこと第一点第二点において説明したとおりである。

その他記録を調べても同四一一条を適用すべき事由は認められない。

よつて同四〇八条により裁判官全員の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林俊三 裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 本村善太郎 裁判官 垂水克己)

(被告人の上告趣意)

右事件について左の通り上告の理由を申述べる。

第一点 原判決は憲法第二十八条で保障されている団結権、団体行動権を侵害するものである。

判決理由の文中(二頁、十一行目)「同日午後二時頃、五・三〇記念大会視察のため、同クラブ前に――」と明らかに示されている如く新田部長は、遠賀地区朝鮮統一、民主戦線並田川自由労組、日炭高松労働組合第一支部の採炭協議会の参集する民主的会合に対して、明らかに干渉する意図をもつて臨み、しかも発見されるや、自らを警察官であることを隠蔽しようとして言を左右にして逃れようとした事実は否定することの出来ないものである。

そのことは明確に法によつて定められたる事柄を意識していた立場であり、そのことが明らかに憲法を犯すであろうことの解釈によるものであると信じます。

しかも新田部長の証言によると、

「岡垣村から五・三〇大会に参加した朝鮮人の動きを見に来た」

と明らかに述べて居る。

岡垣村の朝鮮統一、民主戦線の人々や、田川自由労組並に日炭高松労働組合員の人々は、法的に認められたる組織の一員であり、このような勤労者が、自らの権利と生活を守るために固く団結をし、団体によつて示威行進をしたり、随時に集会を持つたりすることが憲法によつて保障されており充分に守られなければならないことは多言を要しないにもかゝわらず勤労者が憲法によつて保障されている団結権、団体行動権を行使して居ることに干渉しようとした、この新田部長の行動を合法化する場合は、そのために憲法第二十八条の精神は無惨にも踏みにじられ、明らかに、これを侵害するものである。

しかもそのことによつて労働組合に於ける自主権まで侵害し民主的諸権利を圧殺せんとする意図であると断定せざるを得ない、このことは平和憲法の基本理念を犯かすものである。

第二点 原判決は警察官のスパイ活動を容認し、憲法で保障された思想、信条の自由を侵害するものである。

五・三〇記念大会に際して特別に警察官を動員し、更に採炭協と会合し、メツセージを交換する集会に混れ込みこれを、スパイすることは基本的人権を蹂躙するばかりでなく職権を乱用してすべての民主的な集会の自由すら奪ひとることを意味するものである。

若しもこの事が許されるならば真に労働者階級の利益を守つて斗おうとする政党並労働組合の集会は、その敵である支配者階級に筒抜けとなつて労働者の利益が蹂躙されることは、火を見るより明らかなことである。

原判決は、この観点から見ると憲法を無視し、勤労者の利益に対する考慮は、一かけらも見当らず、実に一方的に強引に押しつけようとする政治的意図によるものであると断定せざるを得ない。

第三点 原判決は平和憲法を犯し、国際的背景を持つ一味の者が戦争政策を強行する隠謀によるものである。

被告は陳述書、並控訴趣意書にも明らかにした如く検察庁側証人の証言の不統一は、既にかくすことの出来ないデツチ上げ事件であることを立証し、云ひがかりをつけて朝鮮戦争を更に継続する方針であり、

最近となつて明らかにした、アメリカ国務長官ダレスの云ふ、――アジヤの戦争は、アジヤ人の手で――の政策を具体的に、日本人に押しつけ戦場に、かり出すために、最も良心的であり、戦斗的な政党並労働組合に対する攻撃であり、全日本国民に対する弾圧である。

なぜならば、五・三〇記念大会の最も中心的な課題は

――朝鮮戦争の即時停戦――

――朝鮮戦争の細菌爆弾の禁止――

であつた、この要求こそは、平和憲法の基本的役割であり全人類の要求であり、希望であり、世界の良識の指標でもあつた。しかし、其の事はアメリカ帝国主義者を主軸とする吉田政府と、並にこの事件をデツチ上げようとする一味にとつては大きな恐怖であつた。

したがつて、そのような平和の力が少しでも日本の国内に強くなるのを恐れるもの、――それは資本主義の必然的な経済恐慌の前に、何とかしてこれを切り抜けようと焦る米国であり、それにつらなる者たちにとつては最大の恐怖である。

それ故にこの事件は当然の如く松川事件と結合され、全世界的な暴力裁判として有名である。松川事件の無罪釈放の要求を更に一歩進めて大きな成果を納めたことは二年有余を経た今日特に明らかになつて来た事実である。

しかも、このような弾圧によつて労働者の諸君が平和の中心的な勢力としての自覚を高めたことは否定出来ない、そのような力の盛り上りに、あわてたアメリカは、ビキニの水爆実験によつて威カクし、そのような平和の声を押しつけようとしたが、日本人は“死の灰”を与えられるより以外に何ものも得なかつた。

しかも、そのことによつて更に具体的に明らかにされたことはアメリカが決して日本国民の利益を守るものでないと、云ふことであり、更に平和を破壊し戦争を進めようとする者こそが、アメリカ政府であり、日本の国内に居る右翼軍国主義者とその一味であること、又一方に於て平和を進めようとするものが、ソ同盟を中心とする中国人民共和国並朝鮮民主々義共和国と東欧民主々義諸国であることゝ、日本の労働者階級であることが、世界の良心によつて確認される結果を導びいたことは当然のことであります。

そうして戦争こそが最早、人類を滅亡の淵に追ひ込むことであり、平和と民族の独立こそが輝やかしい繁栄の道であることが全世界に証明されたのである。

しかも、そのことを一段と表現したのはアメリカ帝国主義者の孤立となつて大国間から相手にされずにいることでも立証出来ることである、更に具体的に云ふならば、フランスの政変を今日もたらしたのは、フランス国民の熱望が平和であり、そのことは、ローゼン・ベルグ夫妻の無罪釈放の署名と、松川事件の被告の無罪釈放、並裁判をやり直せの署名と、その運動に最も真剣な偉大な希望が力となつていることの事実から目を覆ふことは出来ない。

このような国際的な関連と日本国内に於ける全ての動行が深いつながりを持つて強引に押し進められつゝあるのは何人といえど卒直に認めざるを得ないであろう、それは只単に、この一面のみでなく、政治経済、文化と云わず全産業に汎つて支配しようとするアメリカの野望の一端に過ぎないものであり、国内の吉田自由党政府の汚職と暴力は、これがけつして遇然な事柄ではなく、被告が一貫して常に主張して来たことでありますし、そのような事柄と、この事件や松川事件とを、どうしても切離すことの出来ないことを更に強調するものであります、したがつてこの事件をこゝまで進めて来たのは、何としても戦争政策を押し進める為に仕組まれた、その一味の隠謀によるものであることを述べ、このことは平和憲法を犯し一歩々々アメリカと同じ道、即ち孤立化の戦争政策の破滅の道であることを述べ松川事件の無罪並裁判のやり直しを要求し、又本件の全被告の無罪を要求します。

勿論、被告の無罪の判決を要求します。

(弁護人諌山博の上告趣意)

第一点 原判決は憲法第二十八条で保障されている勤労者の団結権、団体行動権を無視し、労働組合法第一条第二項の解釈適用を誤り、さらに御庁昭和二十四年五月十五日板橋事件大法廷判決の趣旨に違反している。

原判決が被告人の行為を有罪とした根拠は「暴力の行使はいかなる場合にも刑法第三十五条にいわゆる法令又は正当の業務に因り為したる行為と解釈されてはならないものとして不法な実力行使を禁止している」とする労働組合法第一条第二項但書の解釈論に立脚している。

しかし労働組合法第一条第二項但書は、労働運動の一環として刑法上の暴行脅迫等にあたる行為があつたら、必ず刑法第三十五条の適用が排除されるという意味ではない。この点で原判決の基礎になつた労働組合法第一条第二項但書の解釈は、誤りである。

刑法の特例規定ともいうべき労働組合法第一条第二項が定められるまでには、長い歴史的背景があつた。

もともと労働法は、市民法の否定の中から発達してきている。労働運動の発展と恒常化の結果、労働運動に対して無批判に市民法を適用することに、非常な不合理が感ぜられるようになつた。そこで市民法の理論を持つて律せられない分野として、労働運動に適用される特殊な法域が承認されるようになつたのが労働法である。

したがつて労働法は、もともと市民法を排除し、否定する要素をもつている。

これを刑法の分野にあてはめたのが労働組合法第一条第二項である。同条の但書も右の歴史的な背景を無視して解釈してはならない。

労働組合法第一条第二項は、労働運動について刑法第三十五条の適用さるべきことを規定している。

労働運動は、もともと市民法を否定することのなかから発展してきたのであるから、労働運動の過程において、刑法上の暴行脅迫に当るような行為は起りがちなのは当り前である。しかしそれが甚しい行きすぎにならないかぎり、正しい労働運動として法の保護を与えようというのが、労働組合法第一条第二項の趣旨である。

同条は、労働運動のなかでいやしくも暴行脅迫に当るような行為があつたら、すべて違法だということをいつているのではない。

健全な労働良識に照らして、どうしても行きすぎだという場合に限つて、労働法の保護のない場合のあり得ることを規定しているのである。この点については、多くの労働法学者の見解はほとんど一致している。

しかしながら御庁は従来この問題についてきわめてあいまいな解釈を示している。

例えば板橋事件にたいする昭和二十四年五月十五日大法廷判決は、労働組合法第一条第二項が、勤労者の団体交渉において暴行脅迫罪に該当する行為がなされた場合に、常に必ず刑法第三五条の適用があるという趣旨ではないとし、その反面において、事情のいかんによつては必ずしも刑法第三十五条の適用がないとはいえないということを前提において肯認していることが、多くの学者実務家によつて指摘されている(季刊労働法第十号井上正治論文・ジユリスト五十三号伊達秋雄論文)。

ところがその後御庁は、各種の事件に対して、板橋事件とは違い、暴力脅迫のともなう労働運動は常に違法のものだという趣旨の判決をしている。何ら特段の理由も示さないまま、板橋事件の大法廷判決と矛盾するような判旨を出していることが、多くの人の不信と疑惑をまねいていることは、恐らく御庁の耳にも入つていることでしよう。労働法の歴史的、社会的背景からみて、さらに現在の労働良識に照らしてみるとき、板橋事件で示したような結論が正しいのは、いうまでもない。

そのような解釈をとらないかぎり、憲法で言論結社などの自由権のほかに、ことさらに生存権的基本権として勤労者の団結権、団体行動権、を保障した意味がなくなる。以上要するに、根本的には御庁が労組法第一条第二項の解釈をあいまいにしていることに責任があるとはいえ、原判決はこの点について、無批判に労働運動にはいかなる暴力的行為も許されないとする誤つた法解釈を示し、それにもとずいて被告人の有罪をきめている。これは憲法第二十八条及び御庁昭和二十四年五月十五日の板橋事件大法廷判決に違反しているので、原判決は破棄さるべきである。

第二点 原判決は、「仮りに同人をスパイだと信じて逮捕したとしてもそれは原判決の説明するとおり、法の不知であつて犯罪の成立を阻却しないので被告人のした本件逮捕監禁の所為が犯意を欠くという論旨は理由がない」と判示している。これは刑法の基本概念である故意の法意を誤解しており、大審院判例(例えば大審大正十四年(れ)第三〇六号大正十四年六月九日一刑事部判決)にも違反している。

新田巡査部長があつたかいなかは、ここでは一応問題外にしよう。しかし被告人が新田巡査部長をスパイと信じたことは疑いない。この場合、新田がスパイでなかつたとしたら、被告の爾後行為は、錯誤にもとずく行為である。

錯誤とは、主観的観念と客観的実在の不一致をいうと説明されている(小野清一郎著刑法論議一五二頁)。ここに実在とは、すべての対象的存在をいう、感覚的又は経験的事実のみならず、法律的その他の規範的存在を含むとされている。刑法上故意というためには、犯罪構成事実の認識が必要である。詳言すれば、自己の行為及び結果において、犯罪構成要件を充足する事実を認識したことを必要とする。何らかの点で錯誤であつて、この認識を欠くときは、故意を阻却する。逆に錯誤があつても、この認識を欠くに至らないかぎりは、故意を阻却しない(右同書)。

被告人は、新田巡査部長をスパイと確信していた。炭鉱の社宅街で、しかも組合事務所の前で組合代表が友誼団体からメツセージを受けているとき、しかもそのとき事務所内ではカツペ採炭斗争をめぐる組合の討議がなされているときに、私服警察官が大会の現場に来合わして傍聴していたというのであるから、その私服警察官がスパイと間違われるのは当り前である。このような時期にこのような場所で大会のもようをみているような警察官がスパイであると直観するのは、現在の労働者の常識である。組合の大会のもようをスパイすることは、憲法上の団結権、団体行動権、思想、言論の自由を侵害する違法行為であり、そのような行為は、警察官として職権濫用に当るものである。職権濫用罪の現行犯は何人でもその場で逮捕することができる。新田部長がスパイと疑われても仕方のない行動をしている以上、新田部長を捕えようとした被告人の心情には、遵法精神のひらめきはあつても、犯罪構成事実の認識は少しもない。即ち被告人の行為には、故意がない。このような場合に犯意が認められないことについては、既に大審院が狢を狸と誤解して捕え狩猟法違反に問われた事件について、犯意を阻却するものと判示している有名な先例がある。

右判決理由のなかには、「学問上の見地よりするときは狢と狸と同一物なりとするも斯くの如きは動物学上の知識を有するものにして始めてこれを知ることを得べく、却て狸狢の名称は古来併存し我国の習俗又此の二者を区別し毫も怪しまざる所なるを以つて、狩猟法中において単に狸なる名称を掲げてその内に当然狢を包含せしめ我国古来の習俗上の観念に従い狢を以つて狸と別物なりと思惟し之を捕獲したる者に対し刑罰の制裁を以つて之に臨むが如きは決してその当を得たるものというを得ざるが故に、法律に捕獲を禁ずる狸なるの認識が欠缺したる者に対しては、犯意を阻却するものとしてその行為を不問に付するは固より当然なり」と判示している(大審院大正十四年(れ)第三〇六号大正十四年六月九日一刑事部判決)。

右の判決理由は、本件の場合に、おかしいくらいあてはまる。狢をスパイ新田巡査部長と読みかえ狸をスパイでない新田巡査部長と読みかえると、右判決が、そのまま本件の判決理由として通用する。右のとおりであるから、新田巡査部長がかりにスパイを働いていた現行犯でなかつたとしても、スパイと信じて逮捕した被告人の行為には犯意が認められない。原判決は故意の概念を誤解し、右大審院判決と違つた判決をしているので、破棄を免れない。

第三点 被告人の行為には期待可能性がない。争議中の組合に警察官が来て大会の内容をスパイされている現場を発見した労働者は、たといスパイと信じたのが誤解であつたろうとも、被告人がなしたと別の行動が期待されるだろうか。権利のための斗争という言葉もあるように、団結権や思想の自由が侵害されようとしているとき、これに対する斗争をすることは各人の義務である。被告人は労働者としての信念と確信の命ずるまゝ、良心的なすべての労働者がなすに違いない行為をなしたまでゞある。このような行為は、期待可能性がないので無罪の判決を言渡さるべきである。

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